阿吽阿教は、冨岡俊次郎翁(以下「御教祖」と記します)が自ら覚醒した宇宙哲学を説いたものです。そこには広大な宇宙観と、その宇宙の中で自分はどのように位置付けられているのかという、人生の根本的な疑問への答えがあります。
冨岡師の言行をまとめた『阿吽阿教本義』は、「阿吽阿 第一」から始まります。「阿吽阿」とは、自覚された絶対一元の宇宙の実在を言い表そうと、口を「阿(ア)」と開いても言うことができず、「吽(ウン)」と口を閉じてしまう。言い表せない実在を敢えて言葉にして、「阿吽阿(アンナ)」としたものです。
「阿吽阿 第一」の全文は以下の通りです。
智 無窮に弥り自由活動する唯一御存在
自由は絶対御存在の御特性、御活動の所以に御存在す、
智 時空を様とする御存在
活動は時間を充実す。時間を充実することは存在、空間は活動の様式。
智 有無を超越する御存在。
時間は無始無終、空間は無辺無涯、無始無終・無辺無涯は畢竟無。
智 御自愛御自処 全一活動に相うやまって心をあわせる部分的智性、たまたま稟性の狭義自由に委して偏見停滞し変態したる部分的智性即現象個性を或は引導し、或は熱化し因果則制節して、向上進展せしめ、遂に根本智一元唯愛妙境へ還元して永久生命を完全せしむ。
智 個性不二 現象個性は其の実相部分的智性なるがゆえに必然悉皆活動す。
部分的智性は狭義の自由を品融資、それに伴いて起こる活動に必要の機能を獲得する。
部分的智性は根本智を自覚し霊界に感応し、活動機能を作用して対象を認識す。
南無阿吽南無阿吽南無阿吽阿
この「阿吽阿 第一」は、御教祖が自覚した根元的な実在である宇宙のすがたと、現象世界の生じた由来を説いています。
「阿吽阿 第一」は、冒頭に「智」と書き出した文章が五項にわたって記されています。まず、第一項から解説をしていくことにいたします。
御教祖は、宇宙の実在を自覚された時のことを、次のように述懐しておられます。
「此の如く不安の五十余年、速くも過ぎて俊が年六十歳を超えし頃、幸いに御引導に由りて遙に覚を窺い得たり。年方に六十八歳、昭和四年十一月十八日の暁、豁然覚に邇づき得さしめ給えり。俊の歓喜は言語文字の能く表わし得る所にあらず。嗚呼有り難き哉。勿体なき哉。(「遺嘱第五」)
七・八歳の頃から持ち続けた大疑問が、一気に解けた喜びはいかばかりであったことでしょうか。
完全なる存在として直覚された宇宙を、御教祖は「阿吽阿」という文字で仮称しました。そして完全なる存在阿吽阿の動的な面を表す言葉として「智」という文字を当てました。完全なることは智そのものであるということです。
阿吽阿すなわち智は、果てもなく自由に活動する、ただ一つの存在です。常識では、果てもない無限の存在を認識することは不可能です。私たちは、背景を相対的に対置させないと、存在を認識できないからです。
ですから、このご教祖の宇宙観は、相対的な認識を超えたものです。またご教祖は、人格的な存在として絶対宇宙を認識しています。それは、「御存在」と敬語をもって表記していることでわかります。また阿吽阿すなわち智は、人格的なはたらきの面から、愛であるとも自覚されました。
次に、冒頭の文について次のように捕捉して説いています。
絶対的な存在ということは、ただ一つということです。対立する存在がありません。対立し束縛する何物もありませんから、自由そのものです。この自由こそ絶対存在である阿吽阿の特性です。そして、阿吽阿は、智であり愛の霊であって、生き生きと活動する存在です。決して、固って動かない死物のような存在ではありません。そもそも活動自体が存在です。「御活動の所以に御存在す」るというわけです。
阿吽阿 第一
智 無窮に弥り自由活動する唯一御存在
上文は御教祖が自覚した宇宙観です。その自覚された時のことをご教祖は、次のように述懐しておられます。
「此の如く不安の五十余年、速くも過ぎて俊が年六十歳を超えし頃、幸いに御引導に由りて遙に覚を窺い得たり。年方に六十八歳、昭和四年十一月十八日の暁、豁然覚に邇づき得さしめ給えり。俊の歓喜は言語文字の能く表わし得る所にあらず。嗚呼有り難き哉。勿体なき哉。(「遺嘱第五」)
七・八歳の頃から持ち続けた大疑問が、一気に解けた喜びはいかばかりであったことでしょうか。
完全なる存在として直覚された宇宙を、御教祖は「阿吽阿」という文字で仮称しました。そして完全なる存在阿吽阿の動的な面を表す言葉として「智」という文字を当てました。完全なることは智そのものであるということです。
阿吽阿すなわち智は、果てもなく自由に活動する、ただ一つの存在です。常識では、果てもない無限の存在を認識することは不可能です。私たちは、背景を相対的に対置させないと、存在を認識できないからです。
ですから、このご教祖の宇宙観は、相対的な認識を超えたものです。またご教祖は、人格的な存在として絶対宇宙を認識しています。それは、「御存在」と敬語をもって表記していることでわかります。また阿吽阿すなわち智は、人格的なはたらきの面から、愛であるとも自覚されました。
次に、冒頭の文について次のように捕捉して説いています。
絶対的な存在ということは、ただ一つということです。対立する存在がありません。対立し束縛する何物もありませんから、自由そのものです。この自由こそ絶対存在である阿吽阿の特性です。そして、阿吽阿は、智であり愛の霊であって、生き生きと活動する存在です。決して、固って動かない死物のような存在ではありません。そもそも活動自体が存在です。「御活動の所以に御存在す」るというわけです。
ここまでが、「阿吽阿 第一」の第一項です。続いて第二項から第五項まで読んでいくことにしましょう。
智 時空を様とする御存在
空間は縦・横・高さの三次元から成り立ちます。そこに時間の一次元を加えて、この世界は四次元から構成されていると考えられています。「智すなわち阿吽阿は、時空四次元によって構成されています」ということです。
ここはひとまず、阿吽阿は時空四次元から成り立っていると考えておくことにいたします。
私たちにとって、空間を実在として認識することはできます。この部屋という空間は誰でも、すがた、かたちとしてとらえることができますね。しかし時間のほうはちょっと厄介です。心理学、哲学、宗教、物理学などでも時間の定義は難しいところです。時間を実在として認識することは容易ではないのです。「今日は朝六時に起きた」とか「家からここまで一時間かかった」というように、時計の経過として時間を意識することはできますが、時間そのものの実態をつかむことはできません。時間は、ものごとの変化を説明するための概念であって、実在ではありません。
ですから、時間そのものの意義を言語で説明せずに、間接的に時間の意味を表現しました。それが、「活動は時間を充実す。」ということです。停止しているところに時間はありません。活動、とりわけ生きるという活動が時間であるというのです。活動が時間の充実であると、角度を変えて時間を説明しています。
そして「時間を充実することは存在」と続きます。存在とは空間を言い換えたものです。「時間=時間の充実=空間」ということです。さらに、「空間は活動の様式」ということです。
曹洞宗の開祖である道元禅師は、「存在とは時間であり、時間とは存在である。時間がなくなれば山や海もなくなる。時間があるということは、生きているということだ」と言っています。ご教祖と時空観の符節があっているところは興味深いところです。
物理学においても時間は論議の盛んな課題です。ニュートンは、時間は絶対的なものと考えました。「時間は時と場所を問わず常に一定の速さで流れる」ということです。
これに対してアインシュタインは、時間は相対的なものだと、相対性理論を主張しました。光速に近い速度の宇宙船で宇宙旅行をして数年後に地球に戻ると、宇宙船の時間の進み方が遅いので、地球はすでに未来の時代になっていたということも考えられます。御伽噺『浦島太郎』の作者は、相対性理論を知っていたのかもしれません。
前の項では、「智 時空を様とする御存在(阿吽阿は時空によって構成された存在である)」とありました。時間と空間を離れて物事を考えられない、現象界の私達のために、まずはわかりやすく阿吽阿について素描したのが前項でした。しかしここでは、一気に高い視点から、より詳細に阿吽阿の実相を紹介しています。阿吽阿は、有るとか無いとかいった、常識の次元で認識できるものではなく、超越的な御存在なのだと言うのです。
有無を超越するとは、時間と空間に縛られた二元対立の考え方から絶対一元の世界に抜け出ることです。この項では、その次元転換の話へと展開していきます。阿吽阿は、ある時に始まりある時に終わるといった、時間に制限された存在ではなく、永遠の御存在である。そして、阿吽阿は、どこからどこまでという、空間的な区切りもない、涯のない御存在である。このように、現象から見た世界観から超越して、阿吽阿という高い次元の視点から、時間と空間についての定義をしているのがこの項です。
私たちは日ごろ、時間や空間を意識するとき、その外側に背景を設定してその存在を浮き彫りにします。背景が無ければその存在の輪郭を描けないので、私たちは認識できません。Aを認識するには、非Aが必要になるのです。従って、無始無終無辺無涯なるものは認識できません。有無を超越しているのです。それは無としか言いようがないというわけです。この無は、有の対立概念の有ではなく、対立を超越した実在です。
禅の古典である『無門関』という書物に、「趙州無字」という話が出てきます。ある禅の修行僧が、趙州という師匠に「イヌにも仏性はありますか?」と訊きました。すると趙州は、「無」と答えます。この趙州の言う「無」の真意は何か? というのが禅の公案(テスト問題)になっています。
趙州の言う「無」は、有無を超越した「無」という意味ですから、「イヌには仏性は無い」と言っているのではありません。この趙州の言った「無」の意味が、理屈ではなく体で分かっているかどうかを点検するのが、このテストのねらいなのです。「趙州無字」が解ければ、「無始無終無辺無涯は畢竟無」の心もカラリと解かります。そして時間と空間の束縛から、絶対自由の世界へと解放され、阿吽阿の無限愛に包まれるのです。『阿吽阿教本義』の「三十六 時期の到来を待つべし」に、「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば生まれぬ先の父ぞ恋しき」という一休禅師の歌を引用しています。これは、有無を超越した境涯を示した、御教祖の公案のように思います。
第四項の「智 御自愛御自処」は、御教祖ご自身が、阿吽阿教の教理の枢軸であるという言われているところです。
『阿吽阿教本義』の中の「二、阿吽阿は、宇宙は」には、「阿吽阿は、絶対・全一・一元、有無を超越、御自愛御自処する、無臭無色、愛の霊」と記されています。
最後の「愛の霊」というところに注目してみたいと思います。「阿吽阿は愛の霊である」というのです。この「愛の霊」を、愛のエネルギー、或いは愛の波動と言い換えると少し具体的になります。
阿吽阿は「絶対・全一・一元」ですから、愛のエネルギーの向かうところは、阿吽阿御自身となります。何分唯一の御存在であり、阿吽阿の他に愛の対象はありませんから、阿吽阿の愛は阿吽阿ご自身に向かうことになります。「御自愛 御自処(自らの愛は自らの処に還る)」というわけです。One loves oneselfということになるわけです。
この項は、この阿吽阿の本質は愛であることと、現象個性の生じた理由について述べています。「阿吽阿第一」の五項目の中でも、最も中心となる項目になります。
ここは文章が長いので、文節を四つに区切って説明することにいたします。
全一活動に相うやまって心をあわせる部分的智性、
全ての全てであり、唯一の御存在である阿吽阿の活動を、全一活動といいます。その阿吽阿の全一活動に、深い敬いを以て心をあわせる(波長をあわせる)部分的智性、ということです。ちなみに、阿吽阿に心をあわせて一体になろうとする意思の表明が、「阿吽阿第一」の終わりにある「南無阿吽阿」と言うことです。阿吽阿に心をあわせるのは、阿吽阿の部分である部分的智性です。阿吽阿は根本智ともいいますが、阿吽阿の部分は部分的智性と言います。部分とはいっても、阿吽阿そのものに変わりありません。純粋な水の入った大きな水槽からくみ取ったカップの水のようなものです。いずれも同じ純粋な水で、H₂Oという本質は変わらないというわけです。
たまたま稟性の狭義自由に委して偏見停滞し変態したる部分的智性即現象個性を、
そのカップに入った純粋な水にたとえた部分的智性は、本質として根本智阿吽阿と全く同じということでした。このカップの純粋な水は、カップという限られた狭い範囲の中で、自由を有しています。「自由は絶対御存在の御特性」と第一項にありましたが、この阿吽阿の自由を、部分的智性も部分の立場で自由を有しているのです。
さてこの部分的智性は、限られた自由の範囲で、ある一隅に偏って留まって変態してしまいました。先の水のたとえで言えば、留まることで腐敗してしまいました。ここで部分的智性は、現象個性となってしまいます。「流水は腐らず」と言いますが、その逆に滞留する水は腐るのです。水が滞留して腐るように、部分的智性は偏見停滞し変態して、現象個性となってしまいました。変態するということは、次元が変わってしまうことです。
偏見停滞して変態したことで生じたのが現象個性でした。同じ水の例えですが、ここでは水が凍ってしまったということにします。どこへでも滞ることなく自由に流れていた水が、固まって自由を失ってしまった状態です。阿吽阿は愛のエネルギーを発動して、元の自由に活動できる水に戻そうとします。「岩の根も木の根もあるにサラサラと ただサラサラと水のながるる」・・・そんな自在のはたらきに還すのです。
阿吽阿のその愛は、「御引導、熱化、因果則」として現象個性にはたらきます。大自然のはたらきの中に込められた御引導のメッセージ、あるいは鉱物のような無機質のものには、熱化解脱(愛の熱)というはたらきによって復元するのです。また、因果の法則によってコントロールして、変態して堕落した現象個性の状態から、本来の部分的智性へと還元して、向上させ、進歩発展するように、愛の心を発揮されます。
こうして、「御引導、熱化、因果側制節」という阿吽阿の愛の活動によって、偏見停滞し、変態して、低次元に堕ちてしまった現象個性は、阿吽阿の完全なる愛の世界へと還ることができるのです。凍って固形化しても、本質はH₂Oであることに変わりはないので、元の姿に還れるというわけです。すなわち阿吽阿の「無窮に彌り自由活動する愛の霊」に還って、完全なる永久生命として生きることになるのです。
御教祖はかめ夫人が亡くなられたとき、祖母の逝去を悲しむ孫たちに、「おばあ様とのお別れは寂しいが、阿吽阿の妙境に還られたのだから、そんなに悲しまないように」とおっしゃったということです。永久生命を確信されていた方のお言葉として、尊く心に響きます。
「智」とは根本智、つまり阿吽阿の事です。絶対的完全なる実在である阿吽阿は、智そのものであるということです。智と個性は不二であるとは、阿吽阿と現象個性は本来同じであるということです。第四項では、阿吽阿の部分である部分的智性が偏見停滞して変態したものが現象個性であるということでした。正反対と思われる阿吽阿と現象個性ですが、根源にまでさかのぼれば、つまり、偏見停滞し変態する以前の本来のすがたは、「智 個性不二」であるというわけです。
不完全な現象個性ですが、その本質は部分的智性ですから、当然全て活動する、ということです。阿吽阿は「無窮に彌り自由活動する唯一御存在」ということでした。ですから、その一部である部分的智性は当然活動します。そして、本来部分的智性である現象個性も、同じく活動するということです。
部分的智性は、根本智である阿吽阿の自由を、部分という狭い立場で持っていて、その狭義の自由に基づいて起こる活動を実現するために必要な機能を持つようになる、ということです。活動に必要な機能とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、大脳、手、足などのことです。
部分的智性は、常に根本智を自覚して、霊界(阿吽阿)に感応し、阿吽阿と共鳴し感応しあっています。しかし、偏見停滞し現象化して、箇々欲を持ち差別意識を持つと、根本智を自覚し霊界に感応する能力を失います。後段の「活動機能を作用して対象を認識す。」とは、元来部分的智性は差別意識がないから対象を認識することはないのですが、差別する意識を持つ現象個性と協作用して、差別的に対象を認識する機能を有するようになるということが記されています。
本来阿吽阿であることを自覚するために、繰り返し唱える言葉です。
以上、「阿吽阿 第一」について解説いたしました。原文と照合しながら、何度もお読みいただきますと、阿吽阿の哲学が身近なものになっていくことと思います。